自然を描くこと——それは私たちの感性が自然に擬態しようとしているのかもしれない。
「感性が自然に擬態する」という着想は、「自然を描くとは何か」という問いに対する、私たちなりの答えだ。擬態とは、生物が他の動植物や環境に姿や様子を似せることを指す。ここではその意味を生物学的な枠組みを超えて、人間の感性が自然に限りなく近づこうとする行為として捉えてみる。そして、制作行為を「擬態」として読み解く。
自然を描く行為は、ある種の葛藤や不自然さを内包している。自然に憧れ、本質に迫ろうとすればするほど、自身の作品があくまで擬似的な存在であるという事態に直面する。しかし、制作を「擬態」として捉えるこの考え方は、そうした葛藤や不自然さを乗り越える手がかりになり得るのではないだろうか。
本展では三者の作品を軸に、「自然を描く」という行為を見つめ直す。自然に対する感覚や姿勢は、三者それぞれに異なり、描かれる風景はしばしば記憶や身体感覚と重なり合う。制作のプロセス自体が自然の摂理と呼応するかのように構築されていく。
佐藤健太郎は、水や風の流動性を用いて、自然の持つ流れや循環のイメージを画面に定着させる。土田翔は、直写という表現手法を用い、自然との関係性を強めようと試みる。安田萌音は、土が乾く過程で生まれるひび割れを、自然が描く線として作品に取り込む。
人は自然の一部でありながらも、その実感を日常のなかで得ることはそう多くない。そのような中で「自然を描く」という行為は、人と自然のあいだに横たわる距離に目を向け、それを埋めようとする営みのように思える。
自然は私たちの外側に存在するだけでなく、経験されたものとして内側にも息づいている。私たちは、そうした複数の自然を捉えようとする。それらは、単なる写実や風景描写にとどまらず、多様なかたちで表現されている。本展では、そうした表現を通じて「自然を描くこと」の意味を再考する。
佐藤健太郎、土田翔、安田萌音は、自然へと迫ろうとする感覚を共通して抱きながらも、それぞれ異なる視点で制作に向き合っている。この自然に近づこうとするという制作態度、あるいは制作行為そのものを、「擬態」として考えてみる。
自然を描こうとする時、そこに現れるのは「描かれた自然」であり、あくまで擬似的な存在にとどまることに気づかされる。自然に近づこうとしながらも、決して到達し得ない。その一方で、擬似的なかたちでなければ表現として成立しないという現実がある。そこに、制作と自然の距離感をめぐる葛藤が生まれる。このような葛藤は、本展に参加する三人のアーティストの制作にも、それぞれのかたちで通底しているように思える。
「感性が自然に擬態する」という着想は、自然と表現との間にある葛藤を単なる困難としてではなく、制作に内在する条件として捉える手がかりになるかもしれない。擬態とは、形や振る舞いを似せることで環境に適応する生物の生態である。制作をこうした自然界の営みと同列に見たとき、私たちの表現もまた、自然の循環の一部として捉えられるのではないだろうか。
展覧会タイトルにある「感性」とは、創造性や制作、あるいはそれらに関わる感情や思考として、私たちは位置づけている。その感性が自然に限りなく近づこうとするとき、制作は単に自然の外側にある人為的な操作にとどまらず、自然の内側で起こる生態的・本能的な応答として立ち現れてくる。そうした視点は、自然と人為、内と外を、より連続的で流動的な関係として捉えなおす契機となる。
もし擬態という生存戦略が、制作という行為のなかにも静かに根づいているのだとすれば、それは何を意味するのだろう。制作を、環境との関係のなかで生まれる応答、すなわち一つの適応の形として捉えてみることもできる。そのとき、自然を描くという行為は、個人的な経験にとどまらず、より広く、集団的な営みとして見えてくるかもしれない。自然に限りなく近づこうとする、その応答の中にこそ、自然を描くことの意義が浮かび上がってくる。
佐藤健太郎は、水や風の流動性を用いて、自然の持つ流れや循環のイメージを画面に定着させようとする。流れとは、水や風の動きにとどまらず、エネルギーの伝播や循環として解釈できる。制作過程では、墨や絵の具を画面に垂らし、重力や風といった環境の力を借りながら、流体のもつ偶発性と時間の蓄積を形にしていく。その行為は描くというより、流れに触れ、記録するような行為に近いだろう。
佐藤の関心は、自然の持つ多面性にも及んでいる。こうした関心の背景には、震災被害を受けた石巻で育ったという出自が影響している。「流れ」は豊かさをもたらすと同時に、人間の許容限界を超えたときに、災害として生活を脅かす。その対照的にも思える力は、自然にとっては単なる連続した運動にすぎない。人間の尺度で分けた「豊かさ」と「脅威」は、自然の側から見れば同一のプロセスの中にある。
こうした視点のもと、佐藤の絵画は、自然の運動や力の痕跡を写し取っていく。コントロールされた構図と偶然の作用が織りなす画面には、自然との対話が滲み出ている。それは、私たちの感覚の奥底にある自然への認識を呼び起こし、絵画というかたちで改めて問い直すような営みである。
土田翔は、自然の在り様をダイレクトに画面に写し取ろうとする。その行為は、自然に限りなく近づきたいという欲求の表れでもある。まるで自然になり損ねた存在であるかのように、彼は自然との同化を志向する。筆を取る自身が、自然と作品をつなぐ回路のような存在となり、やがて自然へと溶け込もうとしているのかもしれない。
彼にとって、近づくことの延長線上には「刻む」という身体感覚がある。それは、触れることのさらに一歩先にある、自然と自身が互いに深く入り込んでいくような感覚だ。自然に近づこうとする過程で、自身に自然が刻まれ、同時に自らが自然に刻み込まれていく。そうした触覚的な感覚が、土田にとっては重要な意味を持ち、そこから得られる実感と視覚イメージを交差させながら、筆を動かしていく。
このような姿勢のもと、土田は描くプロセスそのものを重視している。日本画家・小松均の絵画論「直写」※を現代に継承しつつ、さらに拡張しようとしている。また、自然への実感を深めるために、川に身を浸したり、雪に埋もれたりと、自らの身体を自然環境に晒す。表現においては、画面を削る、炙るといった荒々しい手法も用いながら、自然との接触によって得た感覚を鋭く画面に刻み込もうとしている。
※直写とは日本画家・小松均が実践した現場主義的な写生法。対象を目の前にして、首を動かさず、わずかに眼球だけを動かしながら、自然の実景と画面とを一致させるようにして墨線を引き描く方法。
安田萌音は、自然を創造的な隣人として捉え、絵筆を使わずに絵画制作を行う。「乾く」という自然現象によって生まれるひび割れを、自然が描く線として作品に取り入れていく。主な制作として、麻布を張ったパネル上に型を置き、糊を混ぜた土を流し込む。通常は分量や配合によって抑制されるひび割れを、安田はあえて引き起こす方向へと導く。
一見すると、安田の作品は一般的な「絵画」とは異なる印象を与えるかもしれない。しかしながら、土が乾くという現象は、絵の具が乾くことで定着するという絵画制作の基本的な構造に通じている。また、古い絵画に見られる経年によるクラックも、吸湿や乾燥の影響によるものと考えれば、安田のひび割れもまた絵画的な現象であり、自然の力が現れる一つの形だと言える。
アスファルトの隙間に入り込む植物のように、画面上で人為と自然、秩序と偶然が交錯する。安田は、自然が生み出す予測不可能な現象を積極的に受け入れ、その中に秩序を見出す。制御できない要素と、計算された手法が融合することで、作品には偶然性と意図が共存する空間が生まれる。この共存は、人工と自然の関係を映し出し、安田の作品を読み解く上で重要な軸となるだろう。